【10-01】寿司の一握りは玉の食を包む 中日両国に長く伝わる静かで奥深い事実

朱新林(早稻田大学大学院文学研究科特別研究員 浙江大学古籍研究所)     2010年 6月 4日

 日本の食文化について語り始めると、世界中の善男善女の中で寿司について語らない者はいない。寿司の細心且つ精巧な作り方とその奥深い美味は、いつも人々の顔をほころばせ、そのあとのひとときを美味の余韻の中に浸らせる。長い間、寿司の心安らかな美味を味わう時、中国人を含む圧倒的に多くの人々は習慣的に寿司は日本独自の食文化であると思ってきた。しかし、実は古代中国の食習慣の中にも寿司はあり、その歴史は長い。歴史に目を向けると、私達は寿司が中日の文化交流の中で重要な役割を果たしてきたことを発見する。一言で言うと、寿司は中日双方の長い文化交流の中で生まれた産物と言える。

 中日両国は地理的に一衣帯水であるだけでなく、文化の上でも様々に交叉して絡み合ってきた。これらの文化面での繋がりは、大きなことでは古の国を治める理念、儀礼や風習、小さなことでは知識人の笑いや憂い、日常の一食一飯に至るまで、両国間の深い歴史の淵源にさかのぼることができることが明らかにされている。その中で寿司の起源と伝播はまさにこの文化交流の歴史の縮図と言える。

 現在の寿司は、すでに日本の大和民族の民俗と食文化の代表的なシンボルとなり、不断に国際文化交流の懸け橋としての役割を果たし、一般庶民の家庭にも入り込んでいる。実は寿司のこのような文化交流の懸け橋としての役割は、一千年余り前にすでに中日両国の文化の融合の際に発揮されていたことは余り知られていない。

 「寿司」という単語は元来「鮨」あるいは「鮓」であり、日本語の発音はすべて「sushi」である。しかし「鮨」あるいは「鮓」は中国の文字を起源としている。今日、日本では「鮨」あるいは「鮓」はまだ「寿司」の意味を保持しているが、中国の文字の中では古代漢語の表現として存在するだけで、人々が使うことは非常にまれである。

 現有の文献の記述に依ると、最も早く「鮨」についての説明をしているのは《爾雅》(この本が編集されたのは前漢の初年である。しかしその中でその意味を説明している単語の大部分は先秦時代の単語である)で、《爾雅・釈器》曰く「肉はこれを羹(訳者注:とろみのあるスープ)と謂い、魚はこれ鮨と謂う。」その意味は肉醤(訳者注:ししびしお)を羹と称し、みじんにした魚肉を鮨と称している。しかも「鮨」には美味の意味があり、現在でも日本では魚の甘い香りを「旨い」という言葉で表している。

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 しかし《爾雅》の説明は私達に「鮨」は魚と関係のある食品であることだけを伝えており、「鮨」がどのような物と関係があるのかは示しておらず、後漢の劉煕の《釈名》がはじめて私達にその解答を与えてくれた。その上「鮨」という字を「鮓」と書き(これは中国古代漢語の中で一般的に行われていた字の借用現象である)、《釈名・釈飲食》では「鮓とは葅(訳者注:塩漬けの魚)也。米と塩を使って魚を漬物のように漬け、醸成したのちに食する也」とある。

 これが初期の「寿司」の製作工程で、即ち塩漬けにした魚滓を塩、米などを用いて塩漬けにして、魚肉を発酵させたあと細かく刻み、熟成したのちに食べる。もし私達がもう少し注意深ければ、「鮓」という字自体に「酢」の意味があり、これは魚肉が発酵したのちに発生する酸味であることを発見するだろう。ここにはすでに近代的な意義における寿司の主な要素がある。現有の文献に依ると、このように漬物のようにして作る魚醤は、後の楽しみのために魚類の保存時間を延ばすことが主な目的である。

 それでは最も早く「鮨」が出現したのは中国のどの地方だったのだろうか?後漢時代の許慎の《説文解字》曰く「鮨は魚醤也、蜀中で出現する。」つまりこのような魚醤は比較的早く今の四川と湖南の一帯に生まれた。この一帯は湖と沼地が多く、且つ米が豊富で、当時の先賢がこのような方法で魚を食べていたとしても不思議ではない。しかしごく当たり前の常識だが、このような魚の加工製品が最初に出現したのは古齊の地(現在の山東半島沿海地方)の東部沿海地方一帯の筈であり、現地の先賢は漁業で生計を立て、生活の中で、長い時間をかけて魚についての様々な加工方法及び制作方法を探求し、そして米と組み合わせたのちに「鮨」が誕生した。

 漁民は海に祈り、陸の民は山を祭る、古来より然り。そこで、「鮨」が先賢の食卓に登場した際には、同時に神霊による加護を祈る役割も果たしていた。《儀礼》では「南が上座で、西に大きな牛片、ししびしおや、ミンチした牛肉を供える」とある。後漢の鄭玄が注釈して曰く「《内則》では鮨をなますと謂う。然るになますを鮨として用いる。現代の文字では鮨を鰭とする。」上記の記述から私達は、祭祀を行う際に「鮨」が果たした主な役割は祭祀品としての役割であり、そしてここでは肉は魚肉からすでに牛肉に転換していたことを発見することができる。祭祀品はその地に適した物品、習わしに従うという原則のため、このような変化も理解するに難くない。

 これはまさに沿海地方一帯の祭祀の習慣が内陸に拡大していったのちに中国の古代文献の中に記されていたことである。次に私達が聞きたいのは、このような「鮨」はどのような魚と関係があるのだろうか?ということである。答はサンショウウオで、現代中国の俗称は娃娃魚である。《山海経・北山経》曰く「(北嶽之山)の山々から水が出る……その中には鮨魚が多い。魚の体は犬の首くらいで、その声は赤ん坊のようである」。北魏の酈道元の《水経注・伊水》は《広志》を引用して曰く「サンショウウオの声は幼児が驚いた時のような声で、四足あり、形はライギョのようで、牛を鎮めることができ、水を出す也。」

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大サンショウウオ、中国の俗称は“娃娃魚”

 司馬遷はこれをジュゴンと謂う。《史記》曰く「始皇帝の埋葬の際には、ジュゴンの脂肪で蝋燭を作った。」徐広曰く「ジュゴンはナマズに似て四足である。つまりサンショウウオ也。」このような娃娃魚は現代の科目分類から言うと、主に二種類ある。即ち唐の田舎サンショウウオと日本のサンショウウオである。従って、中国の早期の先賢が制作した「鮨」というこのような魚醤の原料はサンショウウオであった可能性がある。

 中日両国間の交流は、現有の文献に依ると、漢代まで溯ることができる。後漢末年の三国鼎立の時代になると中日両国間の往来は非常に頻繁になる。《三国志・魏志・倭人伝》は「倭人は東南方向の大海の地にあり、山が多い島国にいる。古くから百余りの国があり、漢の時代には謁見者あり、30カ国に使節を派遣している。郡から日本までは、海岸に沿って水上を行くと、韓国を経過して、南に行き東に行き、その北岸の狗邪韓国に着いてから、7千数里の海を渡って、千里余り行くと対馬の国に至る。」このような双方の往来の中で、衣食などが最も容易に交流のキッカケとなったのではないかと、私たちは推測する。

 従って、漢代あるいは三国時代に「鮨」あるいは「鮓」はすでに日本に伝わっており、且つこの時の「鮨」と「鮓」はすでに一つの単語、即ち「鮓」で統一されていた。上記で述べているように、「鮨」は先秦時代において祭祀品であり、古代の祭祀の多くは王侯貴族のために行われていたが、魏晋南北朝時代では「鮨」は徐々に神壇から降りて、一般庶民の家庭に入り始めていた。

 周知のように、文化事物が民間に入り始めると、平民は絶えず改善して更新を行う傾向がある。そこで、当時の先賢の「鮓」に対する認識の不断の向上に伴って、「鮓」の作り方も複雑で様々な特長を持つようになった。このような作り方は北魏の人である賈思勰(西暦386~543年)が《齊民要術》の中で詳細に記している。

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賈思勰の像/津逮秘書本《齊民要術》の一部

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津逮秘書本《齊民要術》巻八

 《齊民要術》八巻曰く「塩漬けの魚は春と秋に作ると良い、冬と夏はよくない。新しい鯉の鱗を除き、長さ二寸、幅一寸、厚さ五分の皮のない細切れ肉にする。手をたらいの水の中に入れて、魚を水の中に浸しながら洗って血を除いて、細くほぐして、濾して、更に清水の中できれいに洗って、お皿の中で濾し、白い塩をふり、籠の中に盛り入れて、平らな板石の上で押して水を除き、水がなくなったら、一片あぶって、塩が少なすぎないかどうか味見する。

 粳米を炊いて鯵飯を作り、それにかわはじかみ(訳者注:サンショウ)、ミカンの皮、よい酒を混ぜ合わせる。甕の中に魚の切り身を一段並べ、その上に鯵飯を一段、さらに魚の切り身を一段と甕が一杯になるまで入れる。上の方を膨らませ、魚の上に鯵飯を多めにして、竹と蒲の芽を横交にしてぴったりさせる。竹を削って甕の口に挿し込んで、横交に絡ませて、これを屋内に置き、赤い水がしみ出たら、甕を傾けて捨て、白い水がしみ出るようになったら、味が酸っぱくなって熟成したことになる。食べる時は手でむしって食べる、包丁で切ると生臭い。」これは魏晋南北朝時代の中国の「寿司」の作り方である。

 このような作り方の原料は主に鯉、白塩、精米、かわはじかみ、ミカンの皮と酒で、まず鯉を小さく切り分ける。それから一定の規格の切り身にして、白塩をまぶして生臭さを取り除き、その上に精米、かわはじかみ、ミカンの皮と酒などを混ぜ合わせた調味料を注ぐ。保存のため、これらの加工した「寿司」は磁器のかめの中に入れて発酵しやすくして、白い水がしみ出るのを待ち、少し酸っぱくなったら、食べられるようになる。しかし食べる時は注意しなければならない、包丁で切ってはならない、手でむしって食べたほうがよい。

 現代の科学的な観点から言うと、このような発酵は以下のような原理に基づく。ご飯の中で乳酸菌が発生し、時間の経過とともに、乳酸菌が発酵作用を果たし、その結果大量の乳酸菌類が発生する。これらの乳酸菌類は魚片にしみ込んだあと、腐敗防止と殺菌作用を果たすだけでなく、魚の切り身の風味も変え、そして熟成を可能にする。

 現在、日本人は寿司の食感と美味しさを確保するために、寿司を作る時は新鮮な魚を使う。同時に、わさびを寿司の製作に用いる。このようにすれば殺菌の目的を達成できるだけでなく、寿司の食感も高めることができるので、両方を満たすことができる。このほか、《齊民要術》ではその他のタイプの「鮓」の作り方が記されている。例えば八巻曰く「裏鮓(訳者注:つつみずし)の作り方。細切れにした魚肉を洗って、塩と鯵飯を混ぜ合わせる。十個を一包みとし、蓮の葉で包み、厚めにするとよい。葉が破れると虫が入る。水に浸す必要はなく、少し押さえる。二、三日で熟成し、名は曝し鮓という。蓮の葉には独特の香りがあり、鮓と蓮の葉はそれぞれの香りを放つが、蓮の葉の香りは鮓の香りに勝る。かわはじかみとミカンの皮があれば用い、なくても構わない。”

 これは先賢の作り方を改善したもので、十個の小さな寿司を一つの単位にして蓮の葉で包み、蓮の葉の香りを利用して「鮓」の香りと食感を高めているものである。この他に、あれば一番良いのはかわはじかみ、ミカンの皮で、もちろん、ない場合でも大きな影響はない。以上の文献から私達は、「鮓」は魏晋南北朝時代においては材料の選択だけでなく、作り方等においても、すでにかなりの成熟の域に達していたことが分かる。従って、日本の食物史研究の専門家である篠田統は、このような「鮓」の作り方は原初の寿司の主な特徴を備えていると考える。魏晋南北朝時代は中国民族の大融合の時代であっただけでなく、戦乱が頻発した苦難の時代でもあった。戦乱の中で、一部の人々が戦乱を避けるために、日本に渡り、そして「鮓」というこのような作り方が日本に伝わった。

 唐の時代は魏晋南北朝と隋朝文化の基礎の上に、中国の伝統文化を新しい高峰におしあげた。一連の文化の継承に伴って、「鮓」のような食品も当時の社会で広範に用いられる食品となった。当時の王宮大臣及び白居易、劉禹錫などの食事の席で「鮓」が出されないことはなく、「飲むからには鮓は欠かせない」という感覚を人々に与えるのは非常に容易であった。例えば劉禹錫の《陶母責子》曰く「青年時代の陶公は漁場を管理する官吏となり、素焼きの小さな壺に鮓を一杯盛って母に届けた。」

 白居易の《橋亭卯飲》の詩曰く「蓮の葉で魚鮓を包み、石溝の中に酒瓶を浸す。」この時代の日本は中国の先進的な文化を学ぶため、7世紀から、続々と中国に“西海使”(即ち遣隋使と遣唐使)を派遣し、そしてそれは当時の基本的な国策であった。日本が当時の盛唐を敬慕する光景は、まさに今日欧米列強を追いかけるのと同じで、彼らは大唐で流行する事物を何でも取り入れて体得して、これらは盛唐を代表しているものであると考えた。それは上流社会に溶け込もうとする姿であった。

 この時期、即ち日本の奈良時代であるが、「鮓」は日本の貴族階級の中で次第に流行しはじめ、庶民にとっては献上品となった。この時期は「鮨」の文字が日本の文献の中で初めて登場した時期で、西暦718年に公布された《養老律令》では国民は「雑鮨五斗」を献上しなければならないことが語られている。西暦868年、日本の学者惟宗直本等は《養老律令》について注釈を加え、《令集解》という名の著作を書きあげた。

 《令集解》では「雑鮨五斗」の問題を説明している。彼曰く「雑鮨は鮨と謂い、鮓也。」

 注釈して曰く「郭璞が爾雅について注釈して曰く『鮨は,鮓の属也。音は渠脂の反(訳者注:反切はある漢字の字音を示すのに別の漢字2字の音をもってする方法)。』《古記》曰く『鮨は,旨夷の反。』発音と意味について曰く『蜀の人は魚の鱗を除かず、腸を割いて塩とご飯と酒と混ぜ合わせて、重石をその上に載せて、熟成してから食べる、その名を鮨肉という。』」このような寿司は中国の蜀(四川省)中部の寿司と非常によく似ており、引用している文献も中国の古典文献である。日本は周囲を海に囲まれ、「鮓」の食材と製作環境には特に恵まれ、食に手間ひまかけることを厭わないので、細心で熱心な研究によって、多種類の寿司が派生した。

 この時代、中国における「鮓」の運命は日本とまさしく正反対であった。宋、明の後、中国の主流の料理体系が形成されるに伴って、食習慣としての「鮓」は南方の食卓だけに残され、文献の中では稀に記載が見られるのみとなった。例えば《重修玉篇》二十四巻「鮨は,巨梨の切。魚名、鮓の属也。」《類篇》三十三巻「鮨は,蒸夷の切也。」《説文》では「魚醤也、蜀中で出ずる。一般魚名、鮪也。またの名は渠伊の切、鮓の属也。」《爾雅》では「魚これ鮨と謂う。」これらの「鮓」についての説明はすべて前の時代の字をそのまま受け継いで行っている説明であり、往々にして当時の社会の実際の情況からは乖離する。

 しかし北宋の詩人蘇東坡の文集の中には「鮓」に関してかなり貴重な資料が保存されている。《蘇軾の文集》三十九巻の記述には「東坡曰く『江南の人は盤遊飯(訳者注:唐と宋の時代に海南、広州で流行した今の丼に似たもの)を好み、鮓(訳者注:塩漬け魚)となますを炙り、具材は何でもあり、全てご飯の中に入っている。故郷の諺で言えば“室(むろ)を掘る。”羅浮穎老人は様々な具材で作ったこの料理の名を谷董羹(訳者注:骨董スープ)と名付け、招かれた客はみな美味しいと言った。詩人の陸道士は一つの対聯を作って曰く「『醪(訳者注:にごり酒)を谷董羹の鍋の中に入れる』『盤遊飯の椀の中で室(むろ)を掘る。』東坡は大変喜び、故郷の秀才によって気に入られたが、時を異にすれば全く気に留められないことであろうと記した。」

 このような「鮓」は引き続き塩漬けの魚とご飯を組み合わせた特徴を保持していたが、「鮓(訳者注:塩漬けの魚)」をメインにしたものではなく、乾魚、なますなどの塩漬け食品等と組み合わせて作ったものである。そしてこの点がまさに、「鮓」が「寿司」として発展の方向性を変え、もう一つの別の方向に向かって発展を遂げた所以でもある。即ち「鮓」に「寿司」としての塩漬けの原理が広範に応用され、様々な「鮓」が作られた。例えば雀鮓、ガチョウ鮓及び各種の肉鮓である。現在のザーサイはこのような塩漬けの原理をもとに現在まで伝えられてきた食品で、「鮓」は「寿司」の本来の意味を次第に失いつつある。従って、この時から、「寿司」の応用としての「鮓」は、次第に中国の食卓から消えて行き、清朝に至るまで文献の中にその記述はめったに見られなくなった。現在の中国人が本物の寿司を体験するためには、往々にして日本に行かなければその彩り豊かで美しい姿を十分に堪能することができなくなっている。

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 「鮨」、「鮓」と寿司(日本語の発音)は同一であり、日本人が「鮨」、「鮓」の二字を発音するときの音は呉音(訳者注:昔日本に入った漢字音の一つ)である。しかし「鮨」、「鮓」が日本に伝わったのち、日本人は自分の文字で寿司を表すのを好んだため、現在の日本の漢字である「寿司」という文字が出来上がった。日本の奈良時代以降、寿司は日本各地に広がり、専門の技が形成されて、鮨が制作されている。流派について言うと、主に江戸派の握り寿司と関西派の箱寿司がある。種類について言うと、主に巻き寿司、太巻き、細巻き、手巻、包み巻き、押し寿司、握り寿司、稲荷寿司等がある。組み合わせる具材について言うと、主に寿司海苔、刺身、各類の海鮮、果実野菜、赤身がある。主な調味料について言うと、寿司醤油、わさび、紫ショウガ、シソの葉、みりん、寿司酢がある。にぎやかで騒々しい東京だけでなく、辺鄙で静かな無名の小さな村にも、たくさんの寿司店が日本の大地に根を下ろしている。

 現在、寿司は日本の文化と観光産業にとって重要な文化の象徴となっており、寿司を通して他国との文化交流が絶えず行われている。日本に来る外国人観光客は、様々な寿司店をまわり、異国情緒溢れる食文化を熱心に味わうと言われている。寿司は贅沢品とは異なり、それは政府間の文化交流のツールとしての役目を果たすだけでなく、政府の宴席にも登場し、そして庶民の食卓にも上り、人々にその美味の限りを味わい楽しませている。

 寿司はこのように独特な社会的機能を持つため、今後も寿司文化は絶えることなく美しく咲き乱れる青春の花びらのようにその美しさを表現し、日本の顔を変えた様々な姿とそのしなやかで美しい姿をその上に映し出して、引き続き日本と中国及びその他の国と地区との間の文化交流を推し進めて行くであろうと私は信じている。

 寿司と刺身は一対の双子の兄弟で、共に日本の食文化のイメージ大使を担っている。

 古代中国において、刺身は寿司と同じく、悠久の歴史と伝統があり、上は王公大臣から、下は一般庶民にまで愛された。これだけでなく、古代中国における刺身の誕生と発展の歴史について振り返ると、私達は中日の文化交流の中にある重要なシルエットを垣間見ることが出来る。従って、この角度から言うと、刺身の誕生とその発展は中日文化交流におけるもう一つの文化の縮図と言うことができる。このあとの章で、私は中国の「刺身」の起源と発展の歴史、及び中日の文化交流の中でそれが果たした役割と影響を書いて、みなさんに紹介したいと思う。

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):

中國山東省聊城市生まれ。
2003.9—2006.6 山東大学文史哲研究院 修士課程修了
2007.9—現在 浙江大学古籍研究所 博士課程在籍中
(2009.9—2010.9) 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員


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