【11-01】中日間の悠久の出来事、古い鏡が今の人を映す

譚 翠(中華女子学院対外漢語科講師)     2011年 1月18日

 銅鏡は昔、日本の各家庭が夢にまで見た「3つの聖なる宝」の1つであり、帝王の政治、富、権力の象徴でもあった。また、それは作りが精巧で、デザインに工夫が凝らされ、文様が華麗で、銘文も豊富にあるため、実用的な器物の他、貴重な工芸品でもあった。現在、ガラス鏡の普及により、銅鏡は歴史の舞台を既に退き、我々の生活から遠ざかってしまった。しかし、日本の各地で出土し、収蔵されている大量の銅鏡は日本の歴史を探究するための宝物となり、また、それらは中日文化交流の目撃者でもあり、今日なお光り輝くその鏡面は両国の友好往来の歴史を映し出している。

 古代中国において、銅鏡は化粧に使う生活用品であり、これに関連する記載が数多く見られる。例えば、「戦国策・斉策」は「朝服、衣冠鏡を窺ふ」と記し、北朝の民間歌謡「木蘭辞」には「窓に当たりて雲鬢を理(おさ)め、鏡に対して花黄を貼る」とある。また、西晋の画家顧愷之の名作「女史箴図」には、上品な物腰の女性が鏡に向かい、化粧をする姿が描かれている。これらはいずれも銅鏡を使用していた古代の人をリアルに表現したものである。文学作品の中で、銅鏡は美人と結び付けられることが多い。美しい花園の中で、秘めやかな寝室の中で、美人が精緻な銅鏡を持ち、鏡を前に化粧をし、鏡の中に美人のあでやかな顔立ちが映し出されるのである。こうした艶めかしい情景は人々の遥かな思いをかき立てる。詩人が興に入り、「将来夫婿に対するを知るべし、鏡の前で古時の髻を梳るを学ぶ」、「花の前後を鏡に照らし、面(かお)と花を交えて相映す」といった詩句を書いたのも不思議なことではない。

 その他、古代の人には「死に事ふること生に事ふるが如し」という習俗があったため、銅鏡はしばしば副葬品となり、墓の中で埋葬者の頭の上や胸の傍らに置かれた。鏡が身の回りの日用品であったことを示している。また、銅鏡は邪悪を退けるのに用いることもでき、例えば、怪異小説「続捜神記」には銅鏡で妖魔を降伏させた物語がある。このため、古代の墓では墓室上方の棺床の四隅にも銅鏡が置かれたという。

 指摘に値するのは、古代の人がしばしば銅鏡を借り、自省の比喩としたことである。例えば、「旧唐書・魏徴伝」は「太宗は群臣に謂ふて曰く、夫は銅を以て鏡と為さば、衣冠を正すべし、古を以て鏡と為さば、興替(興廃)を知るべし、人を以て鏡と為さば、得失を明らかにすべし。朕は此の三鏡を常に保ちて己の過ちを防ぎ、今、魏徴は殂(ゆ)き、尤なる一鏡を亡(うしな)ふ矣」と記している。このため、「鏡考」、「鏡戒」、「鏡鑑」等の言葉が生まれた。では、銅鏡はいつ発明され使用されたのか。また、中日両国間の交流においてどう発展したのか。

写真1

写真1 斉家文化の銅鏡
曾甘霖「銅鏡史典」8頁から引用

 文献の記載から見ると、銅鏡は中国の歴史上、古代の伝説時代にさかのぼることができる。例えば、「軒轅黄帝伝」には「帝は因みに鏡を鋳りて之を像す。十五面を為(つく)り、神鏡・宝鏡也」とある。また、「述異記」は「饒州で俗に伝ふるに、軒轅氏は湖辺に於いて鏡を鋳る。今は軒轅の鏡を磨いた石が有り、石の上は常に潔く、蔓草が生えず」と記している。この種の伝説は銅鏡の歴史が非常に長いことを物語るものだ。

 戦国末期の文献には銅鏡に関する記録が非常に多い。例えば、「荘子・帝王に応ふ」は「至人の心を用ふるは鏡の若し、将(おく)らず迎へず、応へて藏(かく)さず」、「荘子・天道」は「聖人の心、静かなる乎、天地の鑑也、万物の鏡也」、「楚辞・九辯」は「今は修飾して鏡を窺ふ兮」、「韓非子・観行」は「古の人、目は自らを見るに於いて短く、故に鏡を以て面を観る」、また、「韓非子・邪を飾(ぬぐ)ふ」は「夫は鏡を揺すれば則ち明らかと為るを得ず」とそれぞれ記している。これらの記載は銅鏡が当時既に広く伝わり、使われていたことを示している。

 出土物から見ると、最古の銅鏡は1975年に甘粛省広河県の斉家坪墓で発掘された。年代は紀元前2000~1900年で、約四千年前のもの。簡単な文様しかなく、稚拙で素朴な作りとなっている。これは銅鏡の初期形態であり、黄帝が鏡を鋳造した歴史上の伝説時代にかなり近い。

 その後、殷(商)及び西周、春秋各時代の銅鏡が僅かながら次々と見つかっている。銅鏡の流行は戦国時代に始まり、生産量が大いに増えた。漢代になると、日常生活での需要が伸び、経済も急速に発展したため、銅鏡の製作は質的な飛躍を遂げ、精緻な工芸、しっかりとした下地、豊かな図案の鏡が登場した。鏡の裏には銘文が刻まれるようになり、「長相思、毋相忘、常富貴、楽未

 央(長く相思ひ、相忘るる毋かれ、常に富貴にして、未央を楽しむ)」といった三字又は四字の句がしばしば見られ、銅鏡は発展のピークを迎えた。魏・晋・南北朝の時代に、銅鏡は一層の発展を遂げ、規矩四神紋鏡が現れた。その表面には「青龍・白虎は四方を掌り、朱雀・玄武は陰陽に順ふ」の銘文がしばしば見られる。また、神獣鏡と画像鏡が出現し、後者の多くは伍子胥、越王等の歴史的故事にちなむもの。さらに年代を記した銘文もある。唐・宋時代になると、銅鏡の製作工芸は新たなピークに到達し、外観の形状は伝統的な円形、方形の他、八角形、ハスの花、ヒシの花、柄付きの手鏡、アオイの花弁等の多くの様式が製作された。装飾図案も瑞獣、鳳凰、胡蝶、葡萄、丸い刺繍模様、人物故事等、バラエティーに富んでいる。同時に、多くの新しい工芸技術が採用された。例えば、金や銀をちりばめ宝石をはめ込んだ図案である。このため、題材が斬新で、文様が華麗な多くの芸術品が生まれた。元・明以降、漢代、唐代の文様を真似ることを除き、銅鏡の製作工芸は次第に衰微した。特に清・乾隆年間以降、近代的なガラス鏡が出現し、幅広く使用されるのに伴い、銅鏡は人々の日常生活に馴染みの薄いものとなった。

 以上、中国の銅鏡発展史を簡単に振り返った。以下、銅鏡と中日両国の文化交流について話を進めよう。

 発掘された考古資料から見ると、日本最古の銅鏡は中国の船で運ばれた。それは紀元前3世紀前後で、即ち秦の始皇帝が中国を統一した後である。日本に現存する最古の銅鏡は弥生時代(BC300年~300年)のものであり、古墳時代(300年~645年)に流行した。初期の銅鏡で確実な紀年銘のある例としては、大阪府和泉市の黄金塚古墳から出土した曹魏の「景初三年陳氏は鏡を作り、之に銘す、子を保り孫を宜(やす)んずる」という鏡が挙げられる。さらに島根県神原神社で出土した曹魏景初三年鏡及び兵庫県豊岡市の森尾古墳、群馬県高崎市の古墳から出土した同じ鋳型の曹魏正始元年鏡がある。これらの銅鏡の出土は中国の歴史書の関連内容を裏付けるものである。「三国志・魏書・倭志」には、「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。其の年十一月、詔書して倭の女王に報じて曰く:親魏倭王卑弥呼に制詔す、・・・・・・汝が在る所踰(はるか)に遠きも、乃ち吏を遣わし貢献す、・・・・・・(汝に賜う)銅鏡百枚」と記載されている。これは歴史上、メルクマール的な意義を持つ中日政府間の外交往来である。中国は独立国家としての邪馬台国の存在とその女王の正統な地位を認め、また、銅鏡を中日文化交流の初期の「使者」の1つとしたのである。その他、日本各地でこれまでに出土した文物から見ると、銅鏡は当時、国務を司るための重要な祭器、国家政権を固めるための不可欠な神器でもあり、身分と地位の象徴となっていた。この時、両国の間を頻繁に往来していた使者が銅鏡等の品物を日本に持ち込んだ。それと同時に、戦乱等の事情により、鏡の製作職人を含む中国の多くの工匠も難を逃れるために海路日本に渡り、日本で中国様式の銅鏡を作ったのである。隋・唐時代に入ると、中国の経済・文化は大いに繁栄し、銅鏡の製作にも歴史的な今1つのピークが現れた。この時、日本は政治、経済、文化の多くの分野で深い影響を受けた。日本政府から派遣された多くの遣唐使、留学生、僧侶及び商人が銅鏡等の工芸品を大量に持ち帰り、また、無数の中国の職人が日本に居住した。当時、中国で流行していた海獣葡萄紋鏡、海馬鏡、金銀平脱鏡、螺鈿鏡等も日本の上流社会に広まり、宝物として保存された。現在、奈良の東大寺正倉院、法隆寺、春日神社、香取神社等にはいずれも唐代の銅鏡があり、後世に伝えられている。

写真2

写真2 正倉院所蔵の唐・金銀平脱花鳥葵花鏡
楊海濤「日韓博物館蔵唐代銅鏡」、「芸術市場」2007年第9期から引用

 そのうち最も注目されるのは海獣葡萄鏡である。そのテーマとなる文様は瑞獣と葡萄で構成され、かつては「天馬葡萄鏡」、「海馬葡萄鏡」、「瑞獣葡萄鏡」とも呼ばれていた。こうした鏡の様式は唐・高宗時代に流行し、武則天(則天武后)時代に最も広まった。日本各地でも出土・収蔵されており、日本の学者から「謎の多い鏡」、「ユーラシア大陸の文明が凝縮された鏡」と呼ばれている。特に奈良県明日香村の高松塚古墳から出土した海獣紋銅鏡は、古墳の中に年代をはっきりと記した物がなかったため、副葬品としてのこの鏡が古墳の年代を確定する重要な拠り所となった。日本の学界がこの問題を巡って活発な議論を交わしていた時、中国で「西安郊区隋唐墓」が出版された。ここには西安近郊の武則天神功二年独孤思貞墓から出土した海獣紋銅鏡が掲載されており、日本の学者の強い関心を呼んだ。なぜなら、この銅鏡は海獣の形状であれ、図柄であれ、さらには大きさ、重さであれ、いずれも高松塚で出土した海獣紋銅鏡とほとんど違いがなく、同じ鋳型で作られた「姉妹鏡」であったからである。この古墳の年代区分に確かな証拠を与えるものであり、これは又、中日両国の銅鏡交流史における1つの美談となった。

 より興味深いのは、これとは別の唐代の海獣葡萄鏡が法隆寺の再建に関する疑問を解くのに役立ったことである。明治時代以降、現存する法隆寺の建築年代について、日本の学界には2つの見方があった。1つは法隆寺は再建されておらず、聖徳太子(574~622年)が建立して以来の建築物だと主張するもの。もう1つは天智九年(670年、唐高宗咸亨元年に当たる)4月30日、建築物は火災により焼失したとの「日本書紀」の記録に基づき、現在の法隆寺はそれ以降に再建されたと考えるもの。この2つの見解は論争が絶えず、決着がつかなかった。大正十五年(1926年)、法隆寺五重塔の心柱の地中部分が腐って改修を行った時、柱の礎石の穴から舎利容器と一緒に1枚の海獣葡萄鏡が発見された。この鏡の年代は法隆寺が再建されたか否かを確定するための重要な手掛かりを与えるものである。もし隋代(581~618年)の鏡なら、法隆寺が「再建されていない」ことを証明し、唐代(618~907年)の鏡なら、法隆寺が後に再建されたことを証明することになる。その後の発掘作業で火災の跡が見つかり、現存する法隆寺は火災後に再建されたものであることが確定した。これは又、この海獣葡萄鏡が確かに唐鏡であることを物語っている。

写真3

写真3 唐・海獣葡萄紋鏡(西安神功二年墓から出土)
曾甘霖「銅鏡史典」187頁から引用

 明・清代になると、中国の銅鏡製作は次第に衰微した。これに対し、日本は中国の漢鏡、唐鏡を模倣して作り、中国文化を消化・吸収すると同時に、草花、胡蝶、飛鳥等の日本文様の「和鏡」を生み出した。和鏡は精巧な工芸品で、文様がユニークであったため、中国に伝わった後、大いに喜ばれた。

写真4

写真4 吉林博物館所蔵の桐葉徽亀鶴紋鏡
孫立謀「中国で発見された日本式銅鏡の初歩的探究」、「収蔵界」2009年第8期から引用

 特に日本の桃山(1573~1602年)、江戸(1603~1867年)時代の銅鏡は工芸技術に深みが出て、中国に大量に輸入され、明・清時代には中国東南沿海一帯の冠婚葬祭用のトレンディな舶来品となり、また、福建省漳州港、厦門港と日本の主要な貿易品の1つとなった。調査統計によれば、現在の福建南部地区で見つかった日本式銅鏡のうち、日本原産のものは3分の1を占めるにすぎず、それ以外はいずれも明・清代の中国の模造品である。これらの模造品は2種類に分かれる。1つは日本の銅鏡の様式をそのまま真似た複製品であり、もう1つは日本の銅鏡の一部の文様や文字を真似しつつ、中国風の図案・文字をこれに加えた中日合作の模造品である。このため、福建南部地区には当時、日本式銅鏡の模造センターが存在していた可能性があると我々は考える。

 銅鏡が日本に伝わり、中国に再び戻った歴史を総合的に見ると、中日両国は一衣帯水の隣国として、多くの方面で特別且つ密接不可分な根源的関係にあったことがわかる。早くも弥生時代に、中国の漢鏡は外交上の誓いの印として日本に伝わり、日本の文化生活に深い影響を与えた。その後、日本は中国の銅鏡を模倣して作り、さらには完璧な「和鏡」を製作するようになり、桃山・江戸時代には商業取引方式で中国に輸出された。精緻な工芸、例えばその文様は中国市場を獲得し、中国東南沿海の鏡を作る作業場でも次々と模造されるようになった。小さな銅鏡は中日両国間の文化交流で重要な役割を果たしたのであり、今日なお輝きを失わないこれらの鏡を見ると、両国の旅商人を乗せた船が頻繁に往来していた当時の状況が目に浮ぶようである。これらの貴重な芸術品を鑑賞する時、上記の歴史をよく知るなら、銅鏡に対する理解と関心が深まるに違いない。

譚翠

譚翠(TAN Cui):中華女子学院対外漢語科講師

中国湖南省寧郷県に生まれる。
2004.9~2007.6 湖南師範大学文学院 修士
2007.9~2010.6 浙江大学古籍研究所 博士
2010.7~現在 中華女子学院対外漢語科 講師


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