【11-03】茗香人心に沁みこみ、茶韻千古に伝わる

董 雪(済南市総工会職員)     2011年 3月29日

茶の香りは人の心に沁みこみ、茶の風趣は千古に伝わる

写真1 

 字面の意味から見てみると、「飲食文化」には少なくとも2つの面、即ち「飲」と「食」が含まれる。「食」に関しては、地域が異なる人の嗜好と愛好には甚だ大きな違いがあり、アメリカ人はファストフードのホットドッグ、ハンバーガー、フライドチキンに夢中になり、イタリア人は味が濃厚なスパゲッティがお気に入りで、フランス人はソースが多く味がこってりした海鮮の御馳走を心から愛し、中国人といえばさまざまな種類の食材を炒めたり、煮たり、揚げたりするのがより習慣的なこととなっている。ところが「飲」について語ると、茶とコーヒーという言葉を用いるだけで東西の異なった好みを概括することができるのである。コーヒーは西洋諸国で最もポピュラーな飲み物であり、ジャマイカのブルーマウンテン、ブラジルのサントス、イタリアのカフェラッテ等はいずれも大衆から大変好まれており、米国のある世論調査はさらに、コーヒーは空気と水を除いてアメリカ人の最も重要な生活必需品であると指摘している。コーヒーと比べて、東洋人はお茶を飲むのをより好み、中国、日本、韓国、インド等の多くの国でいずれもお茶を飲む習慣がある。

 中国においては、茶は種類が極めて多いだけでなく、材料選定、発酵、焙煎等の工程が違うために緑茶、紅茶、烏龍茶(青茶)、白茶、黒茶等に分けられ、さらに生活に重要な位置を占めている7つの必需品と言われる薪、米、油、塩、醤油、酢、茶、の中で、お茶を飲むことは大多数の中国人の生活習慣の一つとなっている。あるいはまさに日常生活においてあまりに普通のことにすぎないことであるため、今でも多くの中国人はお茶を飲むことに対して余りこだわってはおらず、時間と場所に構わず、水質と器に限定することがなく、お茶があればそれでいいのである。お茶を入れ、お茶を飲むことを芸術として鑑賞し、修身養性(身を修め、人格を養い育てる)の方式とすることについて触れるとき、より多くの人が日本の茶道を思いつくのである。細かく分業され、用途がそれぞれ異なるお茶を飲むための道具から、茶を点てる、茶を煮る、茶を入れる、茶を奉げる等の煩瑣な儀式に至るまで、日本の茶道はお茶を飲む上で最も複雑な方式に数えることができる。日本の茶道のきめ細かさ、丁寧さと比べて、中国人の喫茶といえば粗放であるという言葉を用いて形容できるだけのものであるが、歴史を詳細に研究してみると、現在すでに日本の文化的象徴となっている茶道は、寿司、相撲等のはっきりとした日本的特色を有している事物と同じように、いずれも中国文化と中日文化交流と密接な関係を有していることを、我々は発見できるのである。

写真2

(「茶経」の印刷物)              (茶園)            

 すでに存在している文字の記載及び実物の証拠は、いずれも茶の最も早い起源が中国にあることを示している。世界で最初の茶に関する書物である唐代陸羽の「茶経・六之飲」の中には、「茶が飲料になったのは、神農氏に始まり、魯の周公のときに知られるようになった。(春秋時代の)斉には晏嬰があり、漢代には楊雄、司馬相如があり、(三国時代の)呉には韋曜があり、晋代には劉琨、わが遠祖の納、謝安、左思などの人があってみな茶を飲んだ」という記載があり、さらに「神農・食経」を引用して、「茶茗を久しく服めば、人に力をつけ、志を悦しくさせる」と述べている。中国においては、およそ農業、医薬と関係がある事物はほとんど神農氏まで遡ることができる。神農が百草を嘗めた故事は「史記」、「淮南子」等の典籍の中にいずれも記載があるものの、それもしょせんは遥か昔の時代に口から口へと伝えられた伝説にすぎず、実際の証拠はなく、いわんや「神農・食経」はずいぶん前からすでに偽書であることが証明されており、従ってその記載は信用するに足りるものではない。他に晋代常璩の「華陽国志・巴志」には、「周の武王が紂を討伐したとき、巴蜀の地を得た……桑、蚕、麻、苧麻、魚、塩、銅、鉄、丹砂、漆、茶、蜂蜜、霊亀、巨犀、山鶏、白鶏、黄潤、鮮粉のすべてを献納させた。その果実の珍なるものは、樹には茘枝があり、蔓には辛蒟があり、園には芳蒻、香茗があり、客に橙、葵をあたえる」との記載があり、周の武王が紂を討伐したとき、巴と蜀はすでに茶葉を献上品として武王に献納しており、さらにすでに人工栽培の茶園があったことを示している。「華陽国志」は中国の方志学(地誌学)史及び歴史文献学史においていずれも重要な位置を占めているが、唐・宋の前には、書籍の流通はすべて書き留めて伝承するやり方に頼っており、「華陽国志」もその例外ではなく、ずっと後になって北宋のときに初めて版刻本が出現したのであるが、原本が存在していないため、しかも翻刻(刊本・写本を底本とし、木版あるいは活版で刊行する)、伝抄(書き留めて伝える)者がとても多く、そのために誤り及び遺漏、間違った書き加えがある。現有の資料から見てみると、「茶」という字は唐代より前の文字記載の中にはまだ出現してはおらず、「茶経」の作者陸羽に至って「荼」の文字から一筆取り去って、初めて「茶」と言う文字ができたのである。それでは「華陽国志」の中に西周のときにすでに茶があったという記載については、いったい常璩が本当に記載したのかそれとも後人が改竄したのか、今もって知る由もないことである。

 「茶」という文字が出現するのはかなり遅かったものの、茶に関する記載は早くからすでに存在していた。比較的確信できることは、少なくとも漢、魏の時代に、すでに喫茶が始まっているということである。西漢の詩詞歌賦作者王褒は友人一家の言いつけをよく聞かない召使を懲らしめるために、「僮約」(召使の約束)を書き、召使がやらなければならない話を詳細に列記しているが、その中に「烹荼盡具」(茶を煮るには道具を尽くす)、「武陽買荼」(武陽で茶を買う)という記載が含まれている。一般的に、「烹荼」、「買荼」の「荼」は即ち「茶」である。(陸羽の「茶経」の中に、「茶を示す漢字としては、一に荼といい、二に檟といい、三に蔎といい、四に茗といい、五に荈という」との記載がある。茶のその内の一つの名前が「荼」である。)客をもてなすために用いるものであるため、「荼」は間違いなく苦みのある野草ではなく、茶であることに間違いはない。西晋の陳壽が著した「三国志・呉書」には「晧毎饗宴、無不竟日、坐席無能否率以七升為限、雖不悉入口、皆澆灌取盡。曜素飲酒不過二升、初見禮異時、常為裁減、或密賜荼荈以当酒、至於寵衰、更見偪強、輒以為罪」と記載されており、言っているのは呉国の君主孫晧は、飲酒を好み、毎回宴会を設けてもてなし、来客は少なくとも酒を七升飲まなければならなかったが、孫皓は酒量が大きくない韋曜をかなり偏愛し、常に茶を飲むことで酒を飲むことに代えていたというものである。これもまた「以茶代酒」(茶をもって酒に代える)故事の最も早い来歴である。しかもその中から、茶を飲むことが当時すでに宮廷皇室の日常生活の一部分となっていたことが見て取れる。このことについてもその他の文献の中で証左を得ることができる。陸羽の「茶経」は東晋盧綝の「晋四王起事」を引用して、「恵帝蒙塵、還洛陽、黄門以瓦盂盛茶上至尊」と記載している。即ち、晋の恵帝が戦乱を逃れて都を脱出し、後に復位して洛陽に戻ったとき、侍従が素焼きの碗に茶を盛りその飲用に供したというものである。このことから、当時の皇室がお茶を飲むことはすでに極めてよく見かけることであったことが分かる。しかし、喫茶はすでに一部の階層、一部の人々の間において普及していたものの、まだ盛んには行われていなかったとすべきである。唐代温庭筠の「採茶録」の中に晋恵帝の時期の王濛という人の物語、即ち「王濛好茶、人至輒飲之、士大夫甚以為苦、毎欲候濛、必雲“今日有水厄”」(王濛はお茶が好きで、人が来るといつもこれを飲み、士大夫はそれを甚だしく苦く思い、王濛を訪問しようとするたびに、必ず“今日は水の災難がある”と言うのであった)が記載されている。当時士大夫がお茶を飲むことを「水の災難」としていたことから見てみると、魏・晋の時期の喫茶はすでに一部の人には好まれていたが、民衆全体の気風とはなっていなかったのである。

 晋代以後、茶は上層社会だけが楽しんで飲むのに供する珍しくて貴重なものから徐々に下層平民庶民の家に入って行った。隋・唐になると、お茶の製造・販売に関する業が繁栄し、茶葉の生産、消費、貿易はいずれも極めて大きく発展し、民衆全体が普遍的にお茶を飲むようになった。唐代の楊曄は「膳夫経手録」の中で、「茶は古来これを食するを聞かず、近く晋・宋以降になって、呉人その葉を取りて煮、これを茗粥(茶粥)と為した。開元、天宝に至る時期、お茶が少し見られるようになり、至徳、大暦に至って徐々に多くなり、建中以後に盛んになった」と記載している。当時の幾つかの詩詞歌賦にも茶業の生産、貿易についての記載がみられる。例えば、白居易の「琵琶行」は、年長けた琵琶弾きの婦人が商人の妻に嫁したものの、「商人は利を重んじて別離を軽んじ、前月浮梁に茶を買いに去る」との状況を示している。陸羽の「茶経」に記載されているところによると、当時茶葉の生産地区はすでに現在の四川、陝西、雲南、浙江、安徽等の十数の省・自治区のいたる所に分布していた。生産と貿易の繁栄は、消費を前提としたもので、「膳夫経手録」の中でも茶葉消費のニーズが旺盛であったことが、「現在関西(函谷関から西の地方を指す)、山東、閭閻の村落はいずれもこれを食しており、連日食事を取らなくても何とかできるが、茶がない日は一日もあってはならない」と記載されている。貿易の発展はまた茶葉の製作技術と喫茶方法の向上も促した。漢・晋の時期、茶葉の加工は比較的簡単で、多くは新鮮な茶葉を茶餅(茶葉を餅状に固め熟成させたもの)に作り、日に当てて乾かすかまたは火にあぶって乾かしていた。唐代にはさらに高級な蒸青(蒸すことによって「発酵」と呼ばれる「酸化」を止める)、炊青(成形までの一連の作業を鍋に入れ下から熱を加えて行う)の方法が出現した。陸羽の「茶経」には「晴採之、蒸之、搗之、拍之、焙之、穿之、封之、茶之幹矣」(晴れの日にこれを摘み、これを蒸し、これを搗き、これを拍き、これを焙り、これを穿し、これを封じ、乾燥させる)と記載されている。劉禹錫の「西山蘭若試茶歌」には「斯須炒成満室香、便酌澈下金沙水」(部屋中が香るように炒めたら、きれいな水を汲んで茶を立てる)と記載されている。盧仝の「送筆謝孟諫議寄新茶」には、「摘鮮焙芳旋封裹、至精至好且不奢」(鮮たるを摘み、芳を焙じ、施に封じ裹む、至って精に、至って好けれども、且くも奢らず」と記載されている。李郢の「茶山貢焙歌」には、「一時一餉還成堆、蒸之馥之香勝梅、研膏架動声如雷」と記載されている。喫茶が盛んに行われるようになったことが唐代茶文化の発展を推進し、民間と宮廷の共同参画の下、中国の歴史上最初の茶文化のピークが出現した。その中で文人の詩歌創作が重要な推進の役割を果たした。この時期、茶に関係する大量の詩詞歌賦が生まれ、多くの文人墨客がいずれも茶に関係する作品を書いている。例えば、李白の「答族侄憎中孚贈玉泉仙人掌茶並序」、杜甫の「重過何氏五首選一」、白居易の「琴茶」、杜牧の「題禅院」、韋応物の「喜園中茶生」等々で、これらの茶の詩は形式が多様で、古詩、律詩、宮詞、絶句があり、内容も茶摘み、製茶、喫茶、品茶等の各方面を含んでいる。唐代文人たちの茶をもって友と会し、茶をもって道理を伝える生活方式は、喫茶文化の品位と内包を高めただけでなく、さらに我々に茶葉の歴史研究のための貴重な資料を残してくれた。

 唐代に茶業が勃興したのはさまざまな要素が総合的に作用した結果であり、交通が発達して輸送・販売が便利になったこと及び文人墨客が持ち上げたこと以外に、もうひとつの重要な原因は仏教の強力な推賞があったためである。唐代封演の「封氏聞見記」には、「開元の時期、泰山の霊岩寺に降魔大師(悪魔を降伏させることを専門とする人)があり、仏教を大いに興した。仏教を学ぶには、務めて眠らず、また日が沈んで食さず、お茶を飲むことは許す。人は自分の茶器を持ち、到る所で煮て飲み、これより互いに摸倣するようになり、ついに風習となった」と記載されている。仏教の座禅修行の規制は、喫茶の流行に対して推進の役割を果たしており、日本の茶道文化が興起したことさえも、仏教に関係するのである。

写真3

 日本で茶に関する最も早い記載は「古事記」と「奥儀抄」の中に出現しており、日本の天平元年(西暦729年)、聖武天皇は僧侶を集めて季御読経を行うとともに行茶の儀を執り行った。これは、奈良時代に、日本人がすでにお茶を飲み始めていたことを示している。日本の茶栽培についての明確な記載は、延暦24年(西暦805年)、中国で仏教を学び仏法を求めた高僧最澄が浙東(浙江省東部)の茶種を日本に持ち帰り、日吉神社の傍らに植えたというものがあり、ここが日本で最も古い茶園――日吉茶園である。この後、高僧空海、栄忠等の人たちがいずれも大唐から茶種を持ち帰って日本で植えるとともに、中国の茶の作法を伝授した。「経国集」に惟良氏の「出雲巨太守の茶歌に和す」が収録され、「山中茗、早春枝、萌芽採擷為茶時。山傍老、愛為宝、独対金炉炙令燥。空林下、清流水、紗中漉仍銀鎗子。獣炭須臾炎気盛、盆浮沸浪花。起鞏県琬商家盤。呉塩和味味更美。物性由来是幽潔、深岩石髄不勝此。煎罷余香処処薫、飲之無事臥白雲。応知仙気日雰氳」とあり、この詩は採茶、製茶、喫茶の全過程を記録しており、特に泡茶(お茶を点てる)の方法を詳細に説明している。即ち、まず茶餅(茶を餅状に固め数年熟成させたもの)を火の上に置いて焙って乾燥させ、その後臼などで粉末にひき、清らかな水を取り、獣炭を燃やし、水が沸くのを待って、茶の粉を入れ、さらに呉塩を少し加えれば、味わいがさらに美味しくなるというものである。これは陸羽の「茶経」に記載されている茶餅を煎って飲む方法と完全に同じで、まず火を用いて茶餅を焙り、乾燥させるとともに香りを出させ、茶餅が冷めるのを待ってそれを粉末にひき、釜に水を入れて風炉の上において煮沸し、水が一沸(沸き始め)したら茶の粉を入れ、この時塩を少し加えて味を調え、水が二沸(沸きが強くなる)するのを待てば、茶は出来上がり、茶碗に汲んで熱いうちに飲むのである。この時期、喫茶は主として天皇、貴族、高級僧侶等の上層階級において流行し、さらに弘仁年間(西暦810~824年)には、嵯峨天皇、最澄、永忠、空海等を主体として、日本古代茶文化の黄金時代、即ち学術界で称される「弘仁茶風」が形成されたのである。

写真4

(裏千家珍蔵の利休居士肖像
日本千宗室「日本茶道文化概論」より引用)

 日本では九世紀の初めに、一時期非常に盛んとなった「弘仁茶風」が形成されたものの、間もなくして衰退が見られ、日本の茶文化が真に成熟に向かったのは、鎌倉時代の栄西禅師のおかげであるといえる。栄西禅師は仁安3年(西暦1168年、宋孝宗乾道4年)と文治3年(西暦1187年、宋孝宗淳煕14年)の2回入宋して仏法禅宗を学び、帰国の際に多くの仏教経典を持ち帰った以外に、さらに大量の茶樹、茶種を持ち帰った。栄西禅師は日本で喫茶を普及するために、日本で最初の喫茶専門著書である「喫茶養生記」を著した。「喫茶養生記」は漢文で書かれ、上下2巻に分かれ、肝臓、肺臓、心臓、脾臓、腎臓の五臓と酸っぱい、辛い、甘い、苦い、塩辛いの五味の関係を論述するとともに、茶を養生の妙薬とあがめ、日本で喫茶が盛んに行われるのを推進した。日本の喫茶の起源が中国にあったことから、唐・宋の茶風の影響がとても強く、例えば唐が起源で宋に盛んに行われた闘茶(茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び)は、日本に伝えられてから、武士階層に愛好され、さらに室町時代全体にわたって、闘茶はいずれも日本喫茶文化の主流となっていた。ただし宋代文人の高尚な闘茶と違って、日本の武士階層の闘茶はより多くが交際を拡大し、富をひけらかす手段であり、遊戯性がさらに大きくなっていた。

 日本で喫茶が茶芸から茶道に格が上がったのは、主として能阿弥、村田珠光と千利休の三人のおかげである。能阿弥は室町幕府の将軍足利義政に仕えた同朋衆であり、また書、画、茶に精通した芸術家で、外来の中国文化を日本文化の中に取り込み、消化して、現代日本茶道の点茶の作法を確立するとともに、闘茶の贅沢・浪費の気風を一掃し、清寂、簡素、淡雅の精神を推し進めた。村田珠光は能阿弥を基礎として仏教禅宗の思想を茶道に溶け込ませ、自然、質素を尊び、独特な草庵茶風を切り開き、彼が提唱した「茶禅一味」の思想は今日までずっと、日本茶道の最高の境地と見なされている。その後、高僧千利休が茶道に対して全方位の改革と整備を行い、喫茶の精神的内包を発展させ、日本茶道の「和敬清寂」の「四規」及び「茶は服のよきように点て、炭は湯の沸くように置き、冬は暖かく夏は涼しく、花は野にあるように入れ、刻限は早めに、降らずとも雨具の用意、相客に心せよ」の「七則」を明確に提出した。ここに至って、日本はついに中国茶文化の導入、吸収を基礎として、自身の文化・精神を混ぜ合わせ、独自の特色を備えた日本茶道を形成したのである。四百余年来、利休派を基礎としてはいるが、二十余の流派に発展進化してきた。しかし、その「茶禅一味」、「和敬清寂」の文化・精神はこれまでずっと変わることはなく、またまさにこうした精神的追求が、日本茶道をして数百年来ずっと高貴な品格を保持しており、現代人が、慌ただしい、浮ついた生活の中での精神的浄土を保てるようにしている。

董 雪

董 雪:済南市総工会職員

中国山東省徳州市生まれ
2004.9~2007.6  山東師範大学文学部 修士
2007.9~2010.6  浙江大学中文学科  博士
2010.6~     山東省済南市総工会 職員


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