【11-07】中日服飾文化談

姜 虹(淄博職業学院図書館閲覧部 主任)     2011年 7月30日

 中日両国の一部の文化・習慣はもとを同じくするが、約千年間の文化発展と蓄積を経てそれぞれの文化的背景の中で根を生やしたため、今日、それらのルーツを探り、関係性と影響を見極めるためには、様々な角度から多くの風俗習慣を全方位的に考察する必要がある。国をいかに治めるか、という大きな理念から人々の細かい習慣にいたるまで、我々はいたるところで歴史の蓄積と余韻を感じとることができるが、この文章では、中日両国の服飾史の断片を集めることで、古代における中日の文化交流と影響を見ていきたい。

 服飾の美を追求するのは人類特有の行為だ。服飾習慣の変化は社会変革、文化盛衰を映す鏡でもある。古代、木の葉や毛皮を使って体を覆っていた時代から、人々は服飾というものを理解していた。これを基礎に、中日両国の祖先たちは絶えず開拓・革新を深め、独特の服飾文化を形成した。しかし総じて言えば、日本の服飾文化は中国古代、特に唐代の服飾・芸術の影響を受けていると言える。

 中日服飾文化の交流は中日文化交流の重要な一部分であり、特に隋・唐文化は日本の服飾の発展と変革を促進し、影響を与えた。日本の服飾発展と変革を語る上で、和服は欠かすことのできない要素だ。なぜなら和服は日本の伝統衣装のエッセンス、文化的含蓄が凝縮されたものだからだ。

一、和服と中国古代の服飾

 和服の起源は紀元3世紀前後にまで遡ることができる。「魏志倭人伝」には、「用布一幅,中穿一洞,头贯其中,毋须量体裁衣(一幅の布の真中に穴をあけ、ここに頭を通して着る。体に合わせて服を仕立てる必要はない)」とあり、これが和服の原型である。紀元5世紀には女性の衣服縫製職人が百済から日本へ渡っている。さらに雄略天皇12年(468年)、日本は中国江南に使者を派遣し、縫製職人を雇っている。「日本書紀」には「十四年の春正月の戊寅の日に、身狭村主青は呉国の使と共に、呉の献上した手末の才伎(職人)、漢織、呉織、衣縫兄媛、弟媛を連れて住吉津に泊まった」とある。漢織、呉織、兄媛、弟媛とは即ち、中国の機械織り職人と女性の縫製職人のことだ。

写真1

「竹林七賢と栄啓期」南朝の墓磚画

 南京西善橋付近にある斉・宋後期の墓、丹陽市建山・斉の廃帝陵、丹陽市胡橋・斉の景帝陵の陵墓内から出土。

写真2

河南省トウ県南北朝画像磚婦女服飾図

 中国南朝文化の影響で、雄略天皇は一連の措置を講じて養蚕業・絹織業の発展を促進し、日本を中国のような「衣冠の国」としようと望んだ。雄略天皇は臨終の際、この願いが実現できなかったことに深く遺憾の意を表し、次のような遺詔を残している。「病に遭遇しかくも重くなるとは。これ人の生の常にて、言うには及ばぬ。但し、朝野の衣冠はいまだ不明にして教化政刑もなお不十分なり。この思いを口に出すにただ恨みのみ残る」。593年、推古天皇が即位した。その10年後、推古天皇の甥である聖徳太子は氏姓制度改革と門閥世襲制の打破のために、隋の制度を模範とし「冠位十二階」を制定し、位により冠と衣服の色を定めた。聖徳太子は使節を中国に派遣し、中国の職人を日本に招いて技術を学んだ。有名な古代画「聖徳太子像」を見ると、絵の中の聖徳太子は頭に中国式の帽子をかぶり、唐風の服を身にまとっている。ここからも、この有名な歴史的人物が中国の服飾を好んで身につけていたことが窺える。

写真3

聖徳太子像

 日本は710年、6巻の「律(りつ)」、11巻の「令(りょう)」からなる「大宝律令」を制定。この中で、衣服を中国に倣って制作し、宮廷の朝服も唐代の朝服に倣い規定された。例えば天皇は、赤地に日月星辰、竜、山、火などの刺繍が入った「衰竜御衣」を身に付け、文官は頭に冠冕をかぶり、大袖を上着、小袖を肌着として着用し、下袴・表袴・靴を履き、腰刀をさし、手には笏を持っていた。宮廷の女性も小袖の肌着の上に正装の唐服を身につけなければならなかった。古代、中国と日本ではいずれも着物を左前に着ていたが、周の時代、中国が右前に変更したことを受けて、日本でも養老3年(719年)、「天下百姓右襟」と定められた。「養老律令(718)」の注釈文「令義解」には、衣服の縫製の方法にいたるまで具体的な要求が示されている。

写真4

唐代・搗練図

 819年、嵯峨天皇の詔書により、天下の儀式、男女の衣服を唐に倣い、五位以上の位記を漢に倣うこととされた。また諸宮殿・院堂・門閣には唐風の新額がかかげられた。奈良時代、中国を訪れたことのある遣隋使、遣唐使たちは積極的に中国での見聞を広め、服飾の革新を推し進めた。遣唐使・多治比県守は「養老律令」が制定された718年に帰国し、翌年の正月に参賀のために朝廷を訪れたとき、唐王朝から贈られた朝服を着ていったという。天平宝字6年(762年)、元遣唐使の吉備真備は大宰府で綿の上着と冑を各2万250具ずつ作らせた。これらは完全に唐朝の最新の様式にのっとり、五行配色に基づき作られた。弘仁9年(812年)、唐で学んだことのある菅原清公は朝廷に対し、天下の儀式、男女の衣服を唐に倣い、五位以上の位記を漢に倣うよう上奏した。「旧唐書・東遺伝」の記載によると、文武朝の時代、遣唐使・栗田真人が唐を訪れた際の様子として、「まるで中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らしている。身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていた」と記されている。1972年3月、奈良県明日香村で高松塚古墳が発見された。この古墳は7世紀末から8世紀初めに建設されたもので、内部の壁画に描かれた男性の服装は完全に中国風であり、上は唐服、下は袴といういでたちだった。日本の古典小説「源氏物語」では平安時代中期のことが描かれている。小説の主人公光源氏は、「綾織の薄地の唐織物を桜襲にした直衣の下に、葡萄染の下襲を大層長く引いた皇子らしい優雅なお姿で、大切にかしずかれて邸にお入りになるご様子は、大層格別で…」と描かれている。これらの数々は、日本の服飾が中国の影響を受けて大きな変革を迎えたことを説明している。

写真5

唐代「簪花仕女図」

 煌びやかで豪華な服装には精美な衣料が欠かせない。日本の養蚕・絹織業が急速に発展したのは、応神天皇の時代、秦人と漢人が朝鮮半島を経て日本に渡った後のことだ。応神天皇14年、百済の融通王が秦一族を率いて日本に渡来し、絹織物を献上した。天皇は彼らに大和国葛城郡朝津間の土地を与え、機織を命じ、中国式の絹織技術を伝授した。その2年後、百済の照古王は西秦という機織職人を献上した。「姓氏録」の記載によると、仁徳天皇の時代、秦人を各郡に配置し、養蚕・絹織を行わせ、技術を伝授したという。秦人の絹織物は柔らかく暖かいことから、波多の姓を賜ることとなった。「波多」とは肌と「機織」の「はた」をかけている。雄略天皇15年(470年)、天皇は分散して住んでいた秦人1万8670人に秦酒公という姓を与え、養蚕・絹織を命じ、その後、太秦公という姓を与えた。

写真6

鎌倉時代の和服

http://wenku.baidu.com/view/f38fe0fdc8d376eeaeaa31bf.htmlより引用)

写真7

江戸時代の男性の和服

http://wenku.baidu.com/view/f38fe0fdc8d376eeaeaa31bf.htmlより引用)

写真8

江戸時代の女性の和服

http://wenku.baidu.com/view/f38fe0fdc8d376eeaeaa31bf.htmlより引用)

 640年、聖徳太子は「十七条憲法」を制定し、その中で「其不農何食,不桑何服(農民が農耕をしなければ我々は一体何を食べるというのか。養蚕をしなければ我々は一体何を着るというのか)」とした。日本の秦人、漢人は養蚕の方法を普及しただけでなく、綿織物などの技術も伝えた。綿織物は中国周代に起源を発し、周王は綿織布で旗を作ったという。漢の時代、綿織物は日本に伝わった。

二、和服の付属品及びその他

 和服に関連する服飾として、下駄を欠かすことはできない。下駄は中国において長い歴史を持つ。春秋時代、晋の文公は、木を抱いたまま焼かれて焼死した介子推を記念するため、この木を原料として下駄を作ったという。もしこの物語を根拠とするならば、下駄は中国において2千年以上の歴史を持つ。中国の文献・歴史書の中にも、下駄の記載は多い。顔師古による「急就篇」の注釈には「下駄は木により作られ、2つの歯があるため、泥を踏んで歩くことができる」とある。「南史・虞玩之伝」、「晋書・宣帝記」にも下駄に関する記載がある。「魏志・倭人伝」では、倭人は「皆徒跣(素足)なり」とされている。「隋書・倭人伝」では「「人庶多跣足(庶民の多くは、素足である)」とされている。この2つの記載が正しいならば、下駄が最も早く日本で普及したのは唐代以降のこととなる。日本の下駄の起源が、中国の下駄と一体どのような関係を持つのか、現在のところまだ信頼できる資料・証拠はない。しかし、東晋時代の志怪小説「捜神記」の中で、中国古代の下駄は「女性用は先が丸く、男性用は先が四角く、これを男女の別とした」と描写されており、日本の下駄も多くが四角い形だが、女性用は先が丸くなっている。また、鎌倉・室町時代に出現した稲藁を編んで作られる草鞋は、名称から実物にいたるまで全て中国から伝わったものだ。

 このほか和服と関係あるものに、髪型がある。「魏志・倭人伝」によると、「男子は 皆露かいし(冠や頭巾を付けない)、木綿を以て頭にかけ…婦人は髪を屈かいしている(髪を束ねている)」とされている。ここで描写されているのは紀元2世紀末、3世紀初めの情景である。高松塚古墳の壁画から見ると、奈良時代の女性の髪形は、頭の上に髷を結って、両側を肩まで垂らし、ややカーブを描いている。このような髪型は当時、中国大陸と朝鮮半島ですでに流行していた。中国ではこのほか、頭頂部の髪を高く持ち上げてふくらみを持たせ、両側を肩にたらし、ややカーブさせるという髪型もはやっており、奈良・正倉院の鳥毛立女屏風の女性がこの髪型をしている。江戸時代、中国の女性の髪形「唐輪」が日本に伝わり、兵庫の遊女たちが早速まねを始めた。頭の上で高く立てた髷の先をひねる髪型は「立兵庫」と呼ばれる。この時代の女性の髪形はこの立兵庫を代表に、百数十種類にも上った。男性は室町時代以降ほとんどが頭髪を前額側から数寸ほど剃り落とし、これは「月代(さかやき)」と呼ばれる。頭の両側と後頭部の髪の毛だけを伸ばして髷を結い、勇敢の象徴とした。黄遵憲は、「『庄子・馬蹄篇』曰く、『加之以衡扼、斉之以月題馬』。陸徳明はこれに注釈をつけ、『月題とは、馬の額につけた月の形の装飾品のこと』としている」と述べ、月代は「月題」の間違いではないかとの見方を示している。このような髪型は明治維新まで続き、現在は大相撲の力士にのみ残されている。

 足袋は初期のころ、2枚の布を1枚に縫い合わせたもので、指のまたわれがなく、くるぶしのところをひもで結ぶというものだった。「大宝令」では、足袋を表す語として中国語と同じ「襪」の字を使用し、「皇太子の礼服は錦の襪(しとうず)。一品以下、五位以上の朝服は白き襪。無位の制服は白き襪」としている。ここからも、足袋は上流階層の人のみが着用していたことが伺える。江戸・元禄時代(1688-1704年)、中国の財布が日本に伝わった。日本の職人たちはこの財布についていた爪を足袋に応用し、紐を結ぶ面倒がなくなり、より脱ぎ着が便利になった。古代の日本では足袋を履くのは簡単なことではなかった。鎌倉時代は足袋を履く期間が10月10日から翌年の2月2月までと規定されており、この期間内であっても、50歳以上の老人と、主君から特別に許された人しか足袋を履くことができなかった。これがいわゆる「足袋御免」である。この制度は江戸時代になるまで続いた。

三、結語

 中国は周の時代以降、礼を以って国を治めることを強調してきた。礼は実質的には「区別」、つまり君臣、父子、男女を区別し、親疎、貴賎を区別するものだった。服飾は人々の日常的な交流の中で最も直感的な特性であることから、このような区別において真っ先に重要な象徴となった。錦と布は全く等級が異なるものであり、絹と葛、麻も貧富を分ける象徴だった。

 特殊な状況においては、服装にはより詳細な注意事項がある。例えば漢族が死者に着せる寿衣の衣料は「綢子(絹織物)」が多いが、「緞子(どんす)」は避けられる。これは、「綢子」と子孫繁栄を意味する「稠子」の発音が同じで、一方の「緞子」は子孫断絶を意味する「断子」と発音が同じであるため。古代日本の喪服は基本的に藤の蔓皮の繊維で織った布により作られていた。日本人の着物は皆右前だが、死者の着物は左前でなければならない。あの世は陰であり、陽である現実の世界とは反対なため、死者の装束もこの世と反対でなければならないからだ。このため、日本人はたとえ国際的なブランドであっても左前の服は買わない。結婚式で花嫁が伝統的な和服を着る場合は、羽織は避ける。江戸時代に女性は羽織の着用が禁止されており、着用を許されたのは深川の芸者だけだったからだ。このため、花嫁は現在も結婚式では絶対に羽織を着ない。禁忌を守らないことは、不吉または身分の低下を表す。

 和服の種類は数多く、男女の区別、未婚・既婚の区別があるだけでなく、普段着・礼服の区別もある。男性の和服は種類が少なく色彩が単一で、濃い色が多い。帯は細く、着るのも便利だ。女性の和服は種類が多く、色彩が鮮やかで帯は太く、和服の種類によって帯の結び方も異なり、様々な髪型と組み合わせる必要がある。既婚の女性は留袖を、未婚の女性は振袖を着ることが多い。このほか、訪問、遊び、ショッピングなど外出の目的ごとに和服の模様、色、様式が異なる。総じて言えば、和服は主に留袖、振袖、訪問着、小紋、喪服、打掛、浴衣、男性用和服、色無地、付下などの種類に分けられる。TPOに合わせて様々な和服を使い分ける必要があり、これら様々な種類の和服は、異なる文化背景の中で生まれたものだ。

PROFILE
姜 虹

姜 虹(Jiang Hong):淄博職業学院図書館閲覧部 主任

中国山東省淄博市出身。
1990.09-1992.07 シ博師範高等専科学校・化学系 学士
1992.08-2002.08 シ博市公用事業技校 教師
2003.09-現在 シ博職業学院図書館 閲覧部主任
2002.09-2005.07 山東理工大学中文系 学士
2006.09-2009.07 山東師範大学文学院 修士


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