【17-03】科学者・栗原博:「彼はなぜこれほど中国を愛するようになったか」

2017年4月12日

楊保志

楊保志(風生水起);広東省科技庁科技交流合作処副調研員

河南省潢川県出身。入学試験に合格し軍事学校に入学。26年間、軍務に就き大江南北を転戦し、その足跡は祖国の大好河山に広くおよび、新彊、甘粛、広東、広西、海南などの地域で銃を操作し弾を投擲した。メディア、組織、宣伝、人事などに関する業務に長年従事し、2013年末、広東省の業務に転じた。発表した作品は『人民日報』『光明日報』『中国青年報』『検査日報』『紀検監察報』『法制日報』『解放軍報』『中国民航報』などの中央メディアの文芸・学術欄に、また各地方紙、各軍関連紙軍兵種報紙にも掲載され、『新華文摘』『西部文学』『朔方』などの雑誌や、ラジオ、文学雑誌にも採用され、“中国新聞賞”文芸・学術欄銀賞、銅賞をそれぞれ受賞し、作品数は500篇に迫る。かつては発表を目的に筆を執っていたが、現在は純粋に「自分の楽しみ」のためとしている。

 中華系の日本人科学者・栗原博。曁南大学教授、博士課程指導教員であり、曁南大学中薬・天然薬物研究所副所長を務める。かつては北里研究所や科研製薬、サントリー研究センターで薬学研究活動に行っていた。曁南大学で勤務をはじめてから国際雑誌に発表したSCI収録論文は100本余り、申請・取得した特許は30件余りに達する。2011年には「中華人民共和国国際科学技術協力賞」を獲得し、2012年には「広州市栄誉市民」の称号を授与される――。

写真1

写真1 2014年、国際中薬協会フォーラムで講演する栗原博教授。

 2014年9月、栗原氏に初めて出会った時には、2時間ほどしか経たないうちに、栗原氏が重ねてきたこれらの栄誉に驚きを覚えずにはいられなかった。日本籍の科学者として、中国でこれほど多くの実績を上げるということが、栗原氏にはなぜできたのだろうか。そんな疑問を抱きながら、2017年3月中旬、私は再び、栗原教授に近づいたが、善良で誠実、純樸、情熱的なそのイメージはますます強くなった。

 栗原博(以下敬称略)は1954年12月、中国の遼寧に生まれた。母親は日本人だった。青春真っ只中の16歳、東京で女学校に通っていた彼女は、中国での革命事業に身を投じることを選び、中国で数少ない日本籍の中国共産党員となった。彼女はまた、自らの最も美しい青春の年月を中国人民の解放事業と建設事業に捧げた。

写真2

写真2 1946年、情熱真っ只中の女学校時代の軍服の栗原悦子。

 栗原博は子供時代を、中国北方のある炭坑都市で過ごした。二人とも医者だった両親が彼に残した印象は、常に忙しくしていたというものであった。両親は、新中国建設事業のために、我を忘れて一日中働いた。栗原博は小さい頃から、託児所で生活することとなった。栗原はここで、独立を学び、「寂しさ」といかに付き合うかを覚えた。春節(旧正月)のような重要なお祝いの日であっても、ほかの人が祝日のムードに浸っている中、栗原は、ベッドに静かに横たわり、外から時々聞こえる爆竹の音を聞き、色とりどりの花火と楽しそうな人々を窓から見ているしかなかった。毎年のこの時期、両親がしてくれたのは、家族そろって食べる年越し料理を作ることではなく、栗原のために毛布を掛け直し、こう慰めることだけだった。「年越しの時にも病気になる人はいる。病院では、そんな患者のために誰かが待機してなければならない。博はいい子だから、早く眠りなさい」。母親はこんなことを毎年、一年中数え切れないほど言わなければならなかった。栗原は、いつも真っ暗な部屋の中から、両親が彼を家に残し、敷地の門を閉め、いそいそと出かけていくのを聞いていた。幼かった栗原は、両親が遠ざかっていく姿を窓から眺めて、寂しさや孤独、恐怖をつのらせていた。

 栗原の母は内科で働いており、患者を救っていたために深夜になってやっと帰ってくることもあった。深夜まで寝ないで母親を待っていたこともある。敷地の門が開く音が聞こえると、母親がやっと帰って来たことがわかった。すぐに起きてすべての部屋の明かりをつけ、母がしっかりと温かく抱いてくれるのを待った。

 栗原の父は中国人で、やはり非常に忙しい人だった。小児科主任だった彼は、深夜にしばしば急診のために病院に戻ることがあり、何日も家に帰らずに病院で忙しく働いていることもよくあった。父親はそれゆえ、幼い栗原の面倒を見るために、時折彼を病院に連れてきて遊ばせた。病院で多くの患者が待ち遠しそうに待っており、廊下を行ったり来たりしている医師や看護師も忙しそうなのを見て、小さかった栗原は、何かがわかったような気がした。

 栗原は、このような革命家庭でだんだんと成長し、両親の革命への情熱の薫陶を受け、このような両親を持つことを立派に思い、父親のことを徐々にわかっていった。

 幼い栗原に、母親がいつも語ってくれる物語があった。それは1946年のことだった。遼東半島の冬はとりわけ寒く、空はいつも暗く、北風が連日大雪を運んだ。何日かの激戦の後、羊魚頭という名の村は負傷者でいっぱいとなった。ある夕方、村の南西の上空に銃声が鳴り響き、その後、ますます激しくなった。陳湘院長(解放後は錦州医学院院長を務める)が、人々をすばやく分散させ、移動させた。十数人の東北民主連軍の負傷兵の担当となった栗原の母は、鳴り止まない銃声と空いっぱいの大雪の夜の中を、鴨緑江の川辺まで向かった。あたり一面は雪に覆われ、銃声が時に遠く時に近く聞こえた。栗原の母は、負傷した政治委員と川を渡って朝鮮に行く相談をした。極寒の冬だったが、氷の隙間からは、鴨緑江の水が勢い良く流れているのが見え、見る人に越えがたい恐怖を与えた。雪の降り積もった鴨緑江の川面と、完全には氷に覆われていないその隙間とを見比べながら、栗原の母は、川を越えるのがいかに危険かを考えた。迷っている間にも、時折起こる銃声は後ろから近づいてくる。もう他に道はない――。

 「私に先に行かせてください」。重大な責任を感じていた栗原の母は、危険を顧みず負傷者らの制止も聞かず、力を振り絞って自分がまず向こう岸に渡った。向こう岸についた栗原の母は、数十人の負傷兵の命を救う望みの綱をつかんだと思い、「政治委員、渡れます!」と叫んだ。

 負傷者らはこうして栗原の母の励ましの下、一人ひとり鴨緑江をわたった。

 傷病兵らの隊列は深夜になって、雪の中に眠っている小さな山村に行き当たった。栗原の母は、村のある家の既に寝ていた主人を小さな声で起こし、朝鮮族の戦友から学んだ鮮族語でこの家の人と話をした。山村ではそうしてランプが一つずつ灯された。負傷者らが皆寝床を見つけた時には、もう真夜中になっていた。

 もうずっと昔の話になっていたが、話の盛り上がるところでは、栗原の母は、宝物を数えるかのように、一つ一つもらさずに思い出すことができるのだった。その夜、撃たれて気管を負傷した若い戦士が「シャー、シャー」と苦しそうに息をしていた。

 栗原の母は、その姿勢を何度も変えてやり、心配してその戦士のそばに付き添っていた。だが眠気と疲れでいつのまにか眠ってしまった。うとうとしていたのは短い間だったが、栗原の母親は突然、そばの「シャー、シャー」という呼吸音が止まったのを感じて、驚いて目覚めた。寝ぼけ眼で朦朧としたまま、兵士に無意識に救命処置をはじめ、ほかの同志たちにはやく明かりを灯すよう呼びかけた。起こされた傷病兵らがオイルランプを灯すと、横にいた兵士は、さっきと同じように苦しそうに呼吸をしているだけだった。栗原の母はまた安心して眠りはじめた。苦しい数日を経て、栗原の母たちは、上位指揮官とついに連絡をつけ、国内の戦友たちの助けの下、傷病兵らを全員鴨緑江西岸の中国に帰らせることができた。だが栗原の母はまた前線へと、傷ついた新たな兵士を救いに行った。

 栗原博は、両親の薫陶の下でゆっくり育っていった。中国で育った栗原は、中国革命の影響を受け、中国を愛する種も心の中でゆっくりと育っていった。

写真3

写真3 1957年、東京都国分寺の川のほとりで遊ぶ栗原博と母の栗原悦子。

 栗原によると、栗原の母は、学生だった16歳の時に中国革命の奔流に身を投じ、退職して故郷の日本に帰るまでの45年間、苦しい戦争の環境にあっても、新たに生まれた中華人民共和国の建設と改革開放の月日にあっても、さまざまなポストに就きながら、自分の選択を一度も疑ったことはなかった。こうしたすべてが栗原に奥深い影響を与えた。栗原の母は1950年代、日系の中国人として、東京で何度も日本のメディアに新生中国の建設状況を紹介し、中国の実行している共産党の指導する多党派協力と政治協商制度について日本の議員らに解説した。とりわけ1957年に栗原の母は、在中日僑が帰国して家族に会う旅を組織し、行ったり来たりでとても苦労した。改革開放後も、中日文化交流活動に積極的に参加し、中日の人民の世々代々の友好の推進に貢献した。1990年、栗原の母は退職し、滋賀県大津市に住むようになったが、引き続き中国を見守り、中日友好のために奔走した。この間には、滋賀県の帰国者研修を引き受けただけでなく、中国人の現地でのトラブルに心を寄せ、解決を助けた。中国政府の訪問団が大津市を訪れる時はいつも、滋賀県知事と大津市市長は、栗原の母をできるだけ立ち会わせようと手配していた。

写真4

写真4 1957年、栗原悦子と東京都の地方議員が交流・座談会。

写真5

写真5 1980年代、瀋陽薬学院と北里大学薬学院の姉妹校締結式にて。
栗原悦子と北里大学薬学院の小林院長が調印式で発言。

 栗原博は中国で生まれ、幼年期も少年期も中国で過ごし、青年期には当時盛んだった「知識青年」の生活に身を投じた。「知識青年」の生活が終わってから、栗原は、瀋陽薬学院に入り、卒業後は学院に残り薬理学の研究に従事した。1986年、中国で三十数年を過ごした栗原は家族と母親の故郷の日本に戻り、日本国籍を取得し、北里研究所や北海道大学医学部、科研製薬研究所で薬学研究に従事した。1993年には、サントリー研究センターに入って研究開発に従事し、その期間には多くの栄誉を獲得した。

 2003年には、栗原の母が教えた中国国家医薬管理局日本語出国訓練班の生徒であった中国工程院院士の姚新生氏が、栗原に誘いの手を伸ばし、栗原博を広州曁南大学中薬・天然薬物研究所の学術リーダーとして招へいした。中国で育ち、中国の歴史の移り変わりを見ていた栗原博は、中国との縁を忘れることができず、日本にいても中国の友人との関係を切ることはなかった。姚院士によるこのときの招へいは、栗原の故郷を思う心に火をつけ、帰郷の口実を与えた。栗原はまったく迷うことなく誘いを受け入れた。それは日本での高待遇の仕事や静かな生活、一家の揃った喜びを捨てることを意味してもいた。

 何が栗原の原動力となったのか。栗原は、それはやはり母親だったと語る。母親が模範となって、栗原は再び故郷の地を踏み、そのまま十数年を過ごすこととなった。この十数年で、栗原は数々の誇るべき成果を上げ、優秀な人材を育ててきた。栗原自身の言葉を借りれば、栗原は一生、父母の影響を受けてきた。中国に根を張った栗原は、両親が成し遂げられなかったことをしようとしている。これらの成果の実現で感謝すべき対象があるとすれば、中日の世々代々の友好に尽くした栗原の母の栗原悦子のほかにないだろう。


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